足が速くなる方法

足が速くなる方法を考える。
短距離走が速くなる方法を考える。10何年、走り続け、多くの人の話を聞いて短距離走が速くなるための練習として、抑えとかなければならない要素がいくつかある。それを、今回は書いていこうと思う。

その1、
短距離走が速く走れる身体になること。(見た目から近づける)
どうすれば速く走れますか?足が速くなりますか?と聞かれるが、まずは、走れる身体になってくださいとしか言うしかない。太っていればやせる、痩せすぎなら太って力をつける。日本、世界のトップランナーの身体の形態に近づくよう肉体の改造が必要だ。あくまでも、短距離走者に近づけなければ意味はない。砲丸投選手の形態ではなく、長距離選手の形態でもなく、短距離選手の形態に近づく努力をすることだ。

その2、
ダッシュ練習をすること。(短い距離を本気で走る)
トレーニングの原理・原則には特異性の原理がある。それを鍛えるには、それを鍛えるためのトレーニングが必要という理屈だ。
例えば、長い距離を走る練習をたくさんやれば長い距離を走る力が向上する。この場合、少しは短距離走も速くなるが・・・
また、いわゆる流しのスピードで200mや300mを10本走る練習をやればそれをできる力が身につく。真に短距離走の向上をねらうならば、例えば30m、50m、80m、100m、120mのような短い距離のダッシュ練習を本気で走り込む練習をしなければその力は向上しない。

その3、
肉体のスペックを上げること。(スペックという言葉の表現が正しいかはわからないが、身体の規模を大きくすること)
ある程度、速く走れるようになってきたら、筋力を上げて身体を大きくしなければならいないと考えている。この場合、その1に書いたように、短距離選手としての身体に沿うことが必要だ。陸上競技、短距離走にはこれといった技術や技能、戦術はない。階級制でもない。自身は、速くなるには筋力を強くして肉体のスペックを上げる以外ないと考えている。速くなるということは、変化するということ。何が変化したか、それは肉体であることが多いし、自身もそれを実感している。

教える指導者か、教えない指導者か・・・?

一般的に教える指導者とは、指導熱心で、細かく練習メニューを与え、指示やアドバイスをたくさんくれて、心の拠り所としても大きな存在になる人ではないか。
一方、教えない指導者は自分が定義するに、放任主義(自由気ままにやらせて、干渉しない主義)の人だと考える。

どちらがよい指導者かと聞かれると、前者のような気がするだろう。自身の高校時代の指導者はというと、間違いなく後者だった。
練習メニューは出てるようで、出ていなくて、その日の体調や調子で内容を変えてもあれこれ言われることはなかった。大会前の調整は、入学した時から、自由にやれと言われただけで、指示は一切出さなかった。
高3のインターハイ前の1ヵ月間は、全部、自分で考えてやっていいと言われて、全部自分で考えて練習をさせてもらった。その時は、もう自身で考えてやる習慣が身についていたので、そういわれた時、やったーと思った。

当時、周囲の学校の先生からは全く生徒を見ていないとか言う声を、ちらほら聞いたが自身としては何の不自由さも感じなかった。むしろ、こんなにいい指導者はいないと思っていた。なぜかというと、なにも言わなかったが、顧問の先生には間違いなく陸上競技への熱意が感じられたからだ。練習場所も確保してくれたし、道具もたくさん揃えてくれた。だから何の不満もなかった。わけではないが、よかったと思っている。

結果、何がよかったか、それは自身で考えてやる力が身についたことと、自分を救うことができるのは、ほかの誰でもなく、自分自身だけだという考えというか、覚悟を身につけることができたことだ。

先ず、最初の自身で考えでやる力とは、調べる力や試行錯誤する力だ。当時は、練習メニューやハードリングの技術向上、トレーニングの方法をインターネットや本、先輩や友達などを使って徹底的に調べた。そして、それをグラウンドで試した。また、ビデオも撮って何度も見て、研究した。ものすごく、面倒見のいい指導者がいて、いつもアドバイスをくれたらきっと、これほど自身で考えてやらなかったと思う。

次に挙げたことは、頼らない姿勢だ。やれ、指導者がとか、環境がとか言いたくなる。けれども、自身の人生を切り開くのは、自分だけだと思えれば、ふーん、それがどうしたと思えるし、周囲に期待しない、頼らない姿勢ができる。そうすれば、どこでも、強くなれる。つまり無頼って感じだ。何が言いたいかというと、指導者や環境の質にあまり文句を言わなくなることだ。また、単独になっても、一人でもやっていこうとする生き方ではないか。

所謂、教える指導者と教えない指導者はどちらがよいかという問題は、一概に言えないし、永遠の問題だと思う。後者の指導者は数としては少ないし、そのよさを実感できる人も多くはないだろう。なぜなら、教えてくれる人の方が、いい人に感じるからだ。

自身はどう考えるか、前に友人に、結局、自分が受けた指導を生徒にもするようになるよと言われた。なるほど、その通りだなと思った。おれがいいと思ったことは、確かに、次の世代の人にも教えるなと思う。だから、自身は、後者指導者がよい指導者だとおもう。

部活動の面白さ

思い返すと、特に高校の部活動はすごく楽しかった。なぜ、楽しかったか、それは主体的で創造的な学びができたからだと思っている。

自身にとって、一番苦手な学びは一般的な講義形式なものだ。先生が前にいて、机があって椅子に座ってそれを聞くかたち。
たとえ、好きな内容でも楽しいとは思わない。

楽しい、学びとは主体的で創造的に動ける要素が多くある必要があると感じる。だからこそ、部活動では、生徒の考えや意見が反映される隙間を適度につくっておいた方がよいと思っている。そこには、それが好きでやっているという前提が必要ではあるが。

ふと、前からこんなことを考えていたので書いておく。

時間の投下

ここに張り付けた動画を職場の人から教えてもらった。
ここに出てくるお医者さんは有名な方で、以前、情熱大陸にも出ていた。
この動画の中で、この世のすべては時間が形を変えたものという話しが出てくる。
時間をかければ、友達もできる、お金も稼げる、建物も建てられる・・・

その物事に、どれだけ時間をかけられるか、かけることができるかが、それを大きくしたり育てられるかなんだと気がついた。
自身が、高校時代に、インターハイで3位になれたこと。確かにそれなりの恵まれた素質はあったと思う。けれど、間違いなく、同世代の人たちよりも陸上競技に時間をかけた。
学校の成績が良い人は、頭がいいからなのか。きっと違うだろう。その人は、勉強に時間をかけている。そのことに気がつかなければ、人生は動かない。
時間をかける。意識してほしい。